■浜松市の浜名湖で体験学習に来ていた愛知県豊橋市立章南中学校1年生の乗ったボートが転覆し、当時12歳の西野花菜さんが亡くなった事故から18日で10年たった。音楽が大好きで優しい心の持ち主だった花菜さん。家族思いや事故の教訓を改めて振り返る。(読売新聞より)
忘れないで 浜名湖ボート転覆10年 読売新聞連載記事より
2020年6月19日 読売新聞より引用
亡き娘と囲む食卓
テーブルに3人分の夕食が並べられた。この日のメニューは、マーボー豆腐とサラダだ。
愛知県豊橋市の自宅で、西野友章さんと食卓を囲むのは、妻の光美さんと、亡くなった一人娘の花菜さんだ。遺骨が入ったケースの前に、小さな器が二つ置かれた。「私たちの中で 、花菜は中学1年で止まったまま。今でも『会いたい』と思い出します」。友章さんは食卓でそうつぶやいた。
当時中学1年の花菜さんは、2泊3日の体験学習をとても楽しみにしていた。友章さんは、新しくできた友達とより親しくなれると、わくわくしながら荷物を準備する姿を覚えている。場所は浜松市北区の県立三ケ日青年の家。花菜さんは2010年6月17日の朝、「行ってきます」と声を弾ませて家を出た。
2日目の18日午後、体験学習は目玉のボート訓練を迎えた。雨が降り、風が吹く中、花菜さんたちは全長7メートルの手こぎボートで浜名湖へ繰り出した。
しばらくして天気は急変した。船酔いの生徒も出て、ボートは湖上で動けなくなった。青年の家の所長が救助のためにモーターボートでえい航を始めた5分後、手こぎボートは転覆した。
友章さんは、学校からの一斉メールで事故を知った。一度は「全員無事」と伝えられて安心した。だが、実態は学校側が乗船者名簿を提出していなかったため、情報が錯綜していた。無事を自分たちの目で確認しようと、友章さんは他の親と車に乗り合い、浜松市へ向かった。
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「心肺停止で見つかった」
自宅にいた光美さんからの電話は唐突だった。花菜さんは転覆したボートの内側に入って水中から脱出できなかった。「信じられない」という言葉が頭を巡る中、カーナビに映るテレビは「一人死亡」を伝えていた。車内に重い空気が漂う中、ワイパーはせわしなくガラスの雨を払っていた。
浜松市の病院で対面した花菜さんは、頬に擦ったような傷があっただけで、きれいだった。「痛かったね」と、声をかけても返答はない。司法解剖を終え、翌日夜に一緒に豊橋市に戻った。
葬式では、花菜さんが好きだった歌手の西野カナさんの音楽を流した。名前の読み方は一緒だ。墓を建てず、購入した仏壇も初盆過ぎに捨てた。
そして、今も一緒に生活している。遺骨を入れたペンダントは夫婦そろっていつも首にかけている。食卓を3人で囲むのは、10年前からの日課だ。「花菜が好きだったモンブランだよ」。そう声をかけながら食後のコーヒーも一緒に注ぐ。
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友章さんは「花菜の命を無駄にしたくない」と、事故直後から精力的に活動してきた。刑事と民事の裁判で、学校や施設の責任を追及いた。15〜18年は愛知県内の大学の講義で教育学部生に「子どもの命は学校が守るんだ」と訴えた。「事故を風化させてはいけない」という思いを強めている。
事故から節目の10年となった18日には、花菜さんが在校した章南中を訪れ、在籍に教諭にこう語りかけた。「正しい知識を持ち、過去の事例に学んで入れば、守れたはずの命がある。大人の努力で子どもたちを守ってほしい。花菜の教訓を生かしてほしい」。これからも胸のペンダントにいる花菜さんと再発防止に向けて奮闘するつもりだ。
(引用おわり)
2020年6月20日 読売新聞より引用
安全の模範施設へ再起
浜松市北区の「県立三ケ日青年の家」所長のロッカーには、ボート訓練中に亡くなった西野花菜さん(当時12歳)が身に着けていた救命胴衣が眠る。
オレンジ色のチョッキ形のはずだが、色は薄れ、肩の部分は千切れている。青年の家で所長を務める城田守さんは「いつ見ても、怖かっただろうなと、思いを巡らせてしまう」と目を潤ませた。
花菜さんが使っていた救命胴衣やオールは事故の後、警察によって押収された。業務上過失致死容疑で書類送検された元校長の不起訴が2017年3月に確定すると、それらは青年の家に戻された。救命胴衣だけでなく、折れたオールも当時の様子を示していた。城田さんは「こんな状態になる湖に出たのか」とあ然とし、「悲惨な事故があった証拠品として、青年の家で残していく」と決めた。
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事故があった三ケ日青年の家は2014年4月に事故当時の管理者が代わり、城田さんが新たな所長に就いた。「安全の規範となる施設にしたい」と再起に向けて奮闘してきた。
城田さんはもともと、海洋活動の安全に精通するプロだ。大学卒業後にヤマハ発動機に入社し、水上オートバイ事故が相次いでいた1980年代には、水辺の安全対策の推進に携わった。米マイアミで海洋ルールや子どもへの教育の重要性を学んだ経験を持つ。退社後の2004年に、浜松市で救助艇を製造する会社を設立し、浜名湖を拠点に安全教育にも注力した。
事故があった10年6月18日。浜名湖の安全を守る「浜名湖海の駅連絡会」の事務局だった自宅に電話がかかった。「こんな雨なのにボートを出したのか」と驚きながら、地元の船に救助の指示を出すために浜名湖が見える岸へ向かった。そこで消防からの要請を待ったが、当初は「全員無事」とされていた。、メンバーを解散させた後、花菜さんが亡くなったことを知った。
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城田さんは「この事故が自分の原点。安全で楽しい研修を実現するという使命を与えられた」と話す。所長に就いてからは、マニュアルを抜本的に見直し、職員にレベルの高い訓練を受けさせている。今では職員14人のほとんどがライフセーバーなどの資格を持ち、一部は海上保安庁が指定する「海上安全指導員」にも選ばれた。海の安全で先進的なニュージーランドに職員を派遣することも毎年の恒例としている。
こうして、三ケ日青年の家は、周辺の施設に「日本一安全」と評されるほどに生まれ変わった。19年5月には、国立青少年教育振興機構が主催する研修会が開かれ、全国の青少年教育施設の手本となっている。
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昨夏のことだ。愛知県の中学生が三ケ日青年の家で海洋活動を行なった。花菜さんが通った章南中学校があり、長らく三ケ日での活動を敬遠していた豊橋市も生徒もいた。城田さんは「大きな一歩を踏み出せた」と喜ぶ。
そして節目も今年。9月に牟呂中学校が豊橋市立の学校として、事故後初めて体験学習を行う予定となっている。
(引用おわり)
2020年6月22日 読売新聞より引用
子どもの命 学校が守る
「再発防止に向けて不断の努力をすることを約する」毎年改定される愛知県豊橋市教育委員会の校外学習安全マニュアルの最終ページには、必ず遺族側と争った民事裁判の和解条項が添えられる。若い命を奪った悲惨な事故を忘れないためだ。山西正泰・市教育長は「この事故は何十年たっても風化させてはいけない。子どもの安全は学校が守り続ける」と決意している。
体験学習で浜松市北区の県立三ケ日青年の家を訪れた 西野花菜さん(当時12歳)が亡くなった事故で、豊橋市は当初、責任は施設側にあるとして謝罪しようとしなかった。これに遺族側は「子どもを守るのは学校の責任だ」と反発。一転して和解に応じた豊橋市は、マニュアルや研修を充実させるようになった。
市教委の職員や花菜さんが通った市立章南中の校長らは毎月、花菜さんの父友章さんのもとへ通い続けた。人間関係も次第に「和解」し、友章さんは2018年から豊橋市教諭の3年目研修で再発防止について講義するようになった。山西氏は「友章さんの言葉は心に響く。豊橋市としても子どもの命を最優先にしないといけない」と話す。
豊橋市の新任教諭は今年、初めて三ケ日青年の家で研修することになった。新型コロナウイルスの影響で1泊2日の予定は日帰りに変更されたが、8月に約70人が訪れる。事故から10年を迎え、安全管理の認識を深め、指導力を向上させる。
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一方で、現場がある浜松市の教委は長年にわたって「かわな野外活動センター」(浜松市北区)などで実施してきた新任教諭の宿泊を伴う研修を今年度からやめた。研修内容をまとめる浜松市教育センターは「働き方改革の一環だ」と説明している。
文部科学省による19年度6月の通知では、新任教諭の研修を「休日を確保できるように弾力的に設定すること」としており、これに従った。代わりに、かわなのOB職員が体験学習の意義や指導方法を講義する。市教育センターの担当者は「他の政令市でも縮小の流れがあった。悩んだ末に削った」と胸の内を明かす。かわなの杉本三喜男所長は「危機管理も楽しみ方も肌で感じられる意義があった。日帰りでも来て欲しかった」と残念がる。
縮小の動きに現場は校内指導を徹底する考えだ。市教委にも勤めた市立与進中学校の森真人校長は「コストと成果のバランスを考え判断したと思う。学校でカバーするしかない」と話す。青年の家に近い市立三ケ日東小学校の石田直美校長も「命を預かっているという意識を常に職員で共有する」と気を引き締める。
花菜さんが生きていれば22歳で、今年度の新任は同じ年代が多い。友人からのプレゼントや手紙に囲まれた祭壇の前で、友章さんは願っている。「花菜が残した教訓を忘れないでほしい」と。
(引用おわり)